庭師と駒

ささやかな愛を伝えたいだけのペン、インクは紫で

愛は幻想のむこう

 河合郁人の虚像を愛しているという自覚がある。
 彼はとても不思議な人で、その体の中に多彩な魅力を閉じ込めている。LEGENDコンサート「Red Sun」で見せた激しいエロティックさとかっこよさに対する、early summerコンサート「未来は明るいかい?」でのコミカルでポップな可愛らしさ。ザ少年倶楽部のMC席ではハキハキとした声でけたたましく笑いながら、オフショットやメイキングに映る彼はぽそぽそと細かい粒を繋ぎあわせるように喋り、顔の下半身がブサイクだと自虐するのにひと度シャッターを切られれば自信に満ちた目をした。こういう例は挙げれば挙げるほど、きりがない。普通ならあまりひとつのところでは重ならないはずの要素を、河合さんはいっぺんに持ってしまっていた。

「ジャニーズの誰が好きなの?」

 アイドルが好きなのだと話すとこう聞かれることが多い。知らないと思うんですけど、と前に置いてからグループ名と彼の名前を言う。首をかしげるその人に彼を紹介しようとして、いつもそこで言葉に詰まった。MC担当? お笑い担当? フットボールアワーの後藤さんに似てる。静止画だとかっこいい、って、自分で言ってる。モノマネが得意。まとめサイトに載せられていそうな知識をとりあえず並べる。ジャニーズらしからぬエピソードか、彼のジャニオタぶりを話せば大抵の人は笑ってくれるから、話はそこで終わりだ。僕はどこか、本当に伝えたいこととは違うんだよな、と思ったままでいる。
 誰かに河合郁人を伝えるとき、僕は努めてパブリックイメージと目に見えてわかることだけをつかった。それは、僕の愛している「河合さん」が、恐らく自分自身の世界の中にしかいないのだとわかっていたからだった。
 河合郁人というひとを、ひとつの言葉で定義するのは難しい。どんな風に表してもある側面がこぼれ落ちてしまう。かわいい、かっこいい、きれい、おもしろい。河合さんのファンの方々と話すと、それぞれが少しずつ違う河合さん像を抱いているのだとわかる。時には自分と正反対のこともある。彼を愛する人の心に住まう彼は、その魅力を示したように多彩だった。けれども僕たちは間違いなくひとりの人間に向かっている。僕は人の河合さんの話を聞くのが大好きだ。言葉を交わすうちその真ん中で彼のかたちが膨れ上がっていく。知らない君がそこにいて、正解がないのが良い。
 僕が愛しているのはこの目に見える「河合郁人」だ。愛される力と愛する力を香らせる不器用なひと。真剣で懸命ですこしさみしい。照れると首が赤くなるのがかわいい。木彫りの像に偶像としての威光を与えるのは拝む人の信心で、かみさまは結局自分の心の中にいる。僕はそういう風にしか、彼を好きでいることができない。

 名だたるスターに憧れ夢を追いかけ続けた青年は、アイドル河合郁人として愛されることを望んでくれている。

「あなたが嫌だって言うなら、俺は死なないよ。アイドルだから」

 彼がそう言ったことがあった。彼は概念かなにかになろうとしているのかと僕は思った。自分が投げかけたボールをどう扱っても自由、前からそんなきらいはあったものの、存在の有無までファンに任せてくれているとは思わなかった。アイドル河合郁人の死は、彼の虚像がすべての人の心から消えた瞬間訪れるのかもしれない。恐らく彼が憧れたアイドルとはそういうものだったのだろう。本物ではない自己を愛される覚悟が彼にはある。僕たちは、彼が造り出す「外側」に様々な思いを投影して愛することを肯定されている。僕たちがそうし続ける限り彼はアイドルでいてくれるのだ。それはとても幸運で、恵まれたことだと僕は思う。