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庭師と駒

ささやかな愛を伝えたいだけのペン、インクは紫で

ワナビー素敵っぽいパーソン

昨日(5/16)の夜、だらだらと引き延ばしてやらずにいた地獄の履歴書制作に友達を付き合わせていた。次の日(5/17、これを書いている時点での今日)が説明会並びに面接会だったのでさすがにこれ以上逃げるわけにもいかず、けれどもやる気の起きなかった俺はある友達に連絡をしてネット通話をしながら作業することにした。いわゆる「さぎょいぷ」というやつだ。

 

この友達とは中学のころからの付き合いである。とても賢く問題解決能力に優れていて何かとくよくよ悩む俺にいつも建設的な意見をくれる。あと俺は一年留年しているから周囲の友達はみんな就活の先輩なのだ。彼女の志望する職業は病院関係だったので一般企業の就職活動をやっていたわけではなかったが、履歴書作成や面接自体の経験はたくさんあったし、何より俺は彼女のことを全面的に信頼していた。企業のページを見て書くべき内容を二人で模索し俺がとりあえず書いたものを写真で送って添削してもらう、という作業をしている最中、彼女がふとこんなことを言った。

「そこはさ、何をしたかっていうことよりも、その課題を通してどんなことが分かってそれが仕事にこう役立つと思います、みたいな風に書いていったほうが、素敵っぽくない?」

確かに。その時は得意科目の欄を書いていたのだが、俺が書いた草案は具体的にどんなことをやったのかに内容が終始してしまっていて読んだ人が「へー」と思う以上のとっかかりがなかったのである。早速消しゴムでいらない部分を消していく。腕を動かしながら俺は言われた言葉を反芻して顔が緩んだ。

「素敵っぽい、っていいねえ。なんか」

「なんとなく素敵っぽく思われればいいんだよ」

「うん、さっきのよりめっちゃ素敵っぽいわ」

言い換えれば「印象がいい」とか「好感が持てる」とかになるんだろうけれど、そのフレーズに込められたニュアンスは俺をとても安堵させてくれて、これなら書けるかもしれないと思った。いたく気に入ったのでその後も多用し、俺たちはああだこうだ言いながら「素敵っぽい」履歴書を書き上げていった。一時くらいまでという約束だったのに結局書き終わるまで付き合ってもらって朝方になってしまった。今日の面接にきっちり行けたのは友達のおかげだ。本当に頭が上がらない。

 

「素敵っぽい」という言葉は寛容だと思う。俺が前にブログで言った「わたしB」の概念は、心根から徹底的に磨き上げた自分をもう一つ準備していくというイメージだったけれど、「素敵っぽい」は根幹にある「素敵じゃないところ」を否定しない。むしろ自分はあんまりいい人間ではないけれど、何とかうまく切り貼りやって、そこはかとなくよく思ってもらえればそれでオッケー、という気軽さがある。気になっているけれどまだ一度お誘いできただけの人と遊ぶときみたいに、いい服を着ていく。念入りに化粧をしていく。少しでも気に入ってもらえるように、素敵っぽく見せる。それは嘘ではなくて、俺の言うような自我の書き換えみたいなことでもなくて、「素敵だね」と言われて内定通知書をもらうための「頑張り」でしかないのだ。

企業だって学生に「素敵っぽく」思われるために努力している。給与や待遇があまりよくない会社は、絶対に自分からその話はしない。俺なんかは性格がねじ曲がっているから言及されなかったところを後で調べて「あーあやっぱりな」と思ったりするのだけど(だから自分をうまく見せることを嫌うのかもしれない)なんというか、世の中とは思ったよりもそういう策略にあふれている。就活しかり人間関係しかり経済活動しかり。その社会において俺がくそまじめで性格が曲がっているだけなのだ。そういう俺も日常生活で他人と接するとき、本当に気に入られたいと思う相手に対しては出方も考えるし、どういう風に話せば相手の居心地がいいだろうかと思いながら会話を進めたりもする。好意を持ってもらうために自分をよく見せるなんて誰でもやっている、ふつうのことだ。

 

そういう風に考えると、今日の集団面接で異常なくらい多量の情報を早口で喋っていた人も「好きな人と初めて遊びに行った食事の席で自分をアピールしようとめっちゃ頑張ってる」みたいに思えて、ちょっと微笑ましい。しかし俺は恋愛市場的場面から離脱し続けているのでこの例えだと他人事感が拭えない。だからまあ、「友達になりたい」くらいのスタンスでいこう。

まだ見ぬどっかの御社とお友達になるために、ぜひとも俺のことを素敵っぽく思っていただきたい。素敵じゃないなりに、頑張りますので。