庭師と駒

ささやかな愛を伝えたいだけのペン、インクは紫で

南あきらの慕情

小説/南あきらくん/いつも#短文 にいる南あきらくんではない

 

 

「気絶ごっこ、ってあるじゃないですか」

学生時代の失敗エピソード、みたいな流れがその前にあったのだ。俺のアルバイト先で年に二度ある全体飲み会の席だった。洗い場担当のお調子者進藤が中学の修学旅行で旅館から逃げ出そうとしたのがバレて一晩中廊下に正座させられた話とか、ホールの新人真野さんが高校の頃好きな男子の机にラブレターを入れるつもりが間違えて隣の机に入れてしまい、お世辞にもかっこいいとは言えなかったその男子に思いっきりフラれた話とか、宴席は些細な自己開示で盛り上がった。次第に話題の中心が中国からの留学生ソンさんの現代中国における熾烈な受験戦争の話へとシフトしていくと、勉強と聞くだけで蕁麻疹が出るフリーターの面々やあまり声の大きくないソンさんの話を聞き取れない端の席の人達は、それぞれが近くの相手と小さな塊になって話し始めていた。
俺が別に言う必要もなかった言葉をぽろりと発してしまったのはそんな折で、その時の俺は安居酒屋の予想以上にキツい梅酎ハイを1.5杯くらい飲んだところで全身をじわじわとアルコールに侵食されつつあった。

「なあに? それ」

隣の咲田さんが俺を見上げて無邪気に聞いた。彼女が首を傾げるのに合わせて控えめに化粧した目元がきらきら光る。まだいくばくかの冷静さを保っている頭はすでに、言わなきゃよかったな、と思っていた。けれど自然であることを何よりも優先する俺は、ただ言葉を繋げた。

「知らないですか。俺が中学の頃に流行ったんですよ。なんかこう、何だっけな……方法は忘れちゃったんですけど、どうにかして相手を窒息させて、気絶させるんです」
「私そんなの聞いたことない。それが遊び、なの? 危ないじゃん」

咲田さんは至極真っ当に顔をしかめた。咲田さんと俺では世代も違うし思い返せばあれは男子の間でだけ流行ってすぐに禁止されてしまったから彼女がわからないのも当然だった。

「遊びっていうか……人がふっとぶっ倒れたり、そんでしばらくしたら目が覚めたりするのがおもしろい、みたいな。そういうことだったんじゃないかなと思うんですけど」
「全然おもしろくないよ!」
「失礼しやァすお次揚げ物になりまアす」

雑な掛け声と共に個室の障子が開き店員が次の皿を持ってくる。店員に一番近い席の咲田さんと俺が皿を受け取りテーブルの端まで回す。誰かが注文していたいくつかの飲み物も一緒に運ばれてきていた。店員から内容を聞いた咲田さんがよく通る声で全員に声をかける。

「カルピスサワー誰? あとコークハイと……」
「あっ、カルピス私です」
「コークハイこっちでーす」

飲み物たちは俺が手伝う間もないままてきぱきと目指すところへ届けられる。向かいの一番端の席から最年長の久我さんが俺を指さす。すでにグダグダに酔っぱらっている彼はそのまま数秒言葉が出ず、そして一際でかい声を出した。

「二号てめえ咲ちゃんにそんなことさせてんじゃねえよお、店長だぞ!」
「すいません、いや、あの」
「いいのいいの! それより久我さん、ちゃんと名前で呼んであげてください! あきらくん、ですよ!」
「なんだよお、二号なんだから二号だろ、南二号だよ、おまえがあとから……」

呂律の回らない言葉は続いたが徐々に聞き取れなくなっていった。この店――俺のアルバイト先である焼鳥居酒屋「芭蕉犀川駅前店には南姓が二人いる。一人は開店当初から務めているというフリーターのおじさん(なぜかこういう席にはいつもいない)、もう一人が俺だ。彼と区別して俺は下の名前で呼ばれているのだが、一部からは「二号」だの「眼鏡」だの間違ってはいないが若干心外なあだ名をつけられていた。咲田さんが困った顔をしながら俺に言う。

「ごめんね。あれやめるように言ってるんだけど」
「いや、全然。可愛がってもらってるってことじゃないですかね」
「嫌だったら嫌だって言っていいんだからね」
「そしたら店長権限で久我さんが辞めさせられるんすか?」
「もう、私真剣に言ってるのに!」

彼女は唇を尖らせた。咲田さんは「芭蕉」を経営する親会社の社員で、入社以来犀川駅前店に現場勤務し二年前のちょうど俺が入った年から店長を務めている。勤務歴の長い人たちが言うにはもうとっくに現場を離れていてもおかしくないのだが、成績を出しても中途採用で女性だからなかなか引き上げてもらえないのだという。そんなことをおくびにも出さず誰より懸命に働いている彼女の姿を見て、俺達従業員は店長のためにも頑張ってやろうと思う。彼女はそういう気持ちにさせる人だった。
細い手に握られたハイボールのグラスに口紅の跡が、口元のかたちに合わせて残っている。半円形の跡は薄い桃色をしていた。

「それで?」

グラスに視線を奪われていた俺は、はっとして咲田さんのほうを見た。彼女は硬直した俺を下から覗き込んでいた。

「えっ?」
「さっきの話、途中だったでしょ。気絶ごっこの話」
「ああ……別にそんな面白くないですよ」
「いいよ、聞かせて」

俺は躊躇いを誤魔化して梅酎ハイを二口飲んだ。鳩尾の辺りがかっと熱を持つ。はあ、と息をついて言葉を選んだ。

「俺ってその頃、まあ所謂、いじられキャラみたいなやつで……」

中学二年生の夏、昼休みだった。
クラスの不良、とは言わないまでもあまり素行のよくないグループになぜか気に入られていた俺は、悪餓鬼たちの仲間内で気絶のさせあいが一周したころこの遊びに引っ張りこまれた。俺は彼らの「気絶ごっこ」を時折目にしていて、それが一瞬で終わるものだということもすぐに目覚めることも知っていた。だから彼らに囲まれたとき本気では抵抗しなかった。そのまま俺は首を決められたのか、喉元の辺りを思い切り押さえつけられたのか、記憶が曖昧なのだがとにかく窒息で失神させられた。目の前が真っ白になり床に崩れ落ちる。そして周囲が肩を叩けばすぐ俺の意識は覚醒する、はずだった。

「で、目が覚めたら病院でした」
「えっ!?」
「全然起きなかったらしいんですよね、俺。そいつらも流石にヤバいっつって先生呼んで、救急車が来て大騒ぎ」
「え~……」

咲田さんはただでさえ大きな目をさらに真ん丸にした。悪餓鬼たちは後先を考えないだけで性根の腐った奴らではなかったので放課後病院まで俺を見舞いに来て謝罪してくれた。

「その時ね……見舞いに来たグループの中で一番頭悪いんだけど一番正直な奴がいて」
「うん」
「そいつが俺に、すげえ深刻そうな顔して言ったんです」

――お前のこと殺しちゃったかと思った。

彼女は俺が殺す、という言葉を発した瞬間、まるで耳慣れない外来語を聞いた時のように目の焦点をぼやけさせた。アルコールのせいでいつもよりとろりとした瞳の光を、俺から手元のグラスへ移す。それでもう一度こちらを見ると苦々しく顔をしかめた。

「ぶっ倒れた人間が動かなくなったら、死んだ! って思いますよね」
「ほんっとその遊び危ない! あきらくんだってもしかしたら、そのあとずっと起きなかったかもしれないじゃん!」
「そうですよねえ。まあ俺の病院送りがあってすぐ禁止になって、真似する奴もいませんでしたけど。……ていう、俺の、学生時代の話、です」
「今も学生でしょ、大人ぶっちゃって」
「あはは。そうすね」

この話はここで終わらせて、俺はグラスの中身を一気飲みして次をオーダーするつもりでいた。しかし突然死角からぐいと肩を掴まれ慌ててグラスを置いた。

「俺の中学でもやってたなぁそれ。俺やったことねぇけど」

振り返ると進藤が席を移動してきていた。途中から聞き耳を立てていたらしく会話に割り入ってくる。進藤は駅前の私大に通う学生で俺と同い年だ。楽しいことにしか興味がないタイプだが、悪い奴ではない。

「進藤くんも? やっぱりこの世代で流行ったのかな」
「その話もう終わったんだよ今」
「なあ、あきらさあ、気絶すっときどんな感じだった?」
「ほらこういう奴がね、面白がってやるんですよ」
「俺はやってないっての! なぁどんなだった?」

さらに強く肩を引かれると拒絶もできず、俺はしぶしぶ話を続けた。

「あー、そうだな……進藤って頭痛持ち?」
「いやあ全然」
「ぽいなあ。まあ風邪とかインフルとか、病気したことくらいはあんだろ。怪我とかさ。そういう時に薬飲んで、さっきまでめちゃめちゃ痛かったのとか、しんどかったのがスーッと治まる瞬間ってわかんない?」
「うーん……」
「それか、すっげえ気分いい時に布団入って心置きなく意識飛ばす時の感じ」
「そっちは何となくわかる気するけど……しんどいの? 気持ちいいの?」
「しんどいとか気持ちいいとかじゃなくて、だんだん感覚がなくなってくんだよ。全部。身体のスイッチを一個一個切られていくみたいな」
「へえー」

進藤に言うにしては例えが難しかったろうか。あまり納得した様子はない。咲田さんは俺達の会話をただ微笑みながら聞いていて、時折横目で他の座席のグラスがどのくらい空いたか気にしているようだった。くすんだピンク色のペディキュアをした爪先をすり合わせて、彼女は白い膝小僧の間に顎を乗せる。

「ねえ、あきらくん」

咲田さんが口を開きかけた時、テーブルに置かれた彼女のiPhoneが唸りを上げた。淡い色使いの幾何学模様が入った手帳型ケースを開き、彼女は立ち上がる。

「ごめんね、ちょっと電話」
「ういっす」
「いってらっしゃーい」

店内用スリッパを履いた彼女の足音が遠ざかり、からからと入口の引き戸を開けるのが聞こえた。そして、彼女は俺達の喧騒から逃れた静かなところでやっと電話に出るのだ。俺は残りの酒を飲み干して周囲からオーダーを取っている女性グループに向けて手を挙げた。

「すいません俺ジンジャーハイボール
「女子か」
「うるせーな。お前は?」
「しんどー芋ロックで!」

出てきてかなり時間が経ったフライドポテトをつまむ。冷えているのは仕方ないとしてもやたらしょっぱいのはどうにかすべきだろう。隣で進藤が小さく、うちのがうめえよなあ、と呟いた。俺は頷いて、グラスの底にわずかに残っていた液体で塩分を洗い流した。

「お前さあ、咲田さんのこと好きだろ?」

その言葉は何の脈絡もなく突然で、俺は口に含んだ氷でむせた。咳を繰り返す俺を指さして進藤が笑う。

「うわ、わっかりやすう! 中学生かよ!」
「お前わざと俺が飲んでる時に言ったろ!」
「あっはっは。で、聞くまでもねえけど、どうなの? 狙ってんの?」

ロックグラスを片手に進藤はずいと詰め寄ってくる。含み笑いがむかついたが、こいつはこういう奴なのだ。

「狙ってるとか言うんじゃねえよ。失礼だろ」
「ピュア~」
「お前なあ」
「いや実際、咲田さんキレイだもんな。笑うとかわいいし、なあ? 彼氏とかいんのかな。知らねえの?」
「一人で喋ってんじゃねえ」

キンキラ頭のこいつの前髪、黒くなり始めた生え際を人差し指で押し返す。欠片も可愛くないふくれっ面をする進藤を横目に俺はしょっぱいポテトをもう一つ口へ運んだ。言葉に迷うのを悟られないように繰り返す咀嚼、飲み込んでから、言う。

「いるよ、きっと。彼氏」
「え、何。そんな話もしてんの」
「話したことはないけど……」
「聞いたことないならわかんないだろ。俺が聞いてやろうか」
「いい、いい余計な事すんな。俺なんて……お前だってそうだよ。あともう何年かしたら、全然別のとこ、行く人間なんだからさ」
「なんだよ臆病モンだなあ」

進藤は俺の真似をしてポテトを食べると顔を歪めて「うわっしょっぱ、お前よくこんなの食えるな」と騒いだ。俺は一人たりとつまらなさそうな顔をしている人間のいない宴会の席を見渡す。うちの店舗は本当にみんな仲が良くて嬉しいと、咲田さんがいつも、そう言って笑う。

「一回でもちゃんと、気持ち伝えたほうがいいんじゃねえの。俺はそう思うね」
「俺が明日死ぬなら言うよ」
「そういうこと言ってっからダメなんだよあきらくんは」

程なくして咲田さんが個室に戻ってくると、一方的に肩を組んで俺にべったりくっついていた進藤がおもむろに席を移動した。新人の真野さんのところへ絡みに行きながら一瞬俺を振り返ってにやりと笑う。余計なお世話だ。咲田さんは真っ先に空になった俺のグラスを気にして次を頼んだか訊ねた。俺が頷くと大きく息を吐いて、改まった空気を作った。

「私、あきらくんに言いたいことがあります」
「はい」
「こんなこと、私が言うことじゃないかもしれないけど。あきらくんね、嫌なことは、嫌って、ちゃんと言っていいんだよ」

咲田さんはいつになくゆっくりと、一つ一つの言葉を置くように言った。

「さっきの話聞いて、やっぱり心配だなと思って。いつもそうやって笑ってるから」
「心配してもらってるんですか、知らなかったな」
「誤魔化さないのっ。……自分のこと、大切にしてね」

そうですね、と、俺が中身のない同意をすると目を細める。俺の幸せを真っ直ぐに願う咲田さんは清らかで眩しかった。斜向かいの席で進藤が真野さんに余計なことを言って中年の女性店員さんにぶっ叩かれている。個室は騒がしく、幸福だ。さっき頼んだ飲み物が運ばれてくる。彼女の祈りは俺の身体をすり抜けて、畳の上に音もなく落ちる。

「みんな楽しそうですね」
「そうだね。みんな、って、あきらくんは?」
「俺も楽しいですよ」

ジンジャーハイボールのピリピリした炭酸を舐める。あの話には続きがあって、だけど俺は言わなかった。生きる限り身に降りかかる苦痛からの解放、歪み切った自己存在からの脱却、窒息して自分がすっと消えるのは気持ちよかった、今にして思えばあのまま二度と目覚めないほうがよかったのだ。
咲田さん俺、あなたに年上の彼氏がいること知ってます。その人が時々店を視察に来る本社のあの人で、視察の日にはあなたの家に必ず泊まっていってること、知ってます。あなたがいつ起きていつ眠って部屋着にどんな服を着ているか、知ってます。あなたが俺をただただ自己犠牲の精神が強い普通の青年だと思っていることも。
ざわめきの中で息をひそめてグラスに口をつける。何も知らない彼女は、盛り上がっていく宴の席を嬉しそうに見渡している。結露したグラスを握る彼女の手はしなやかで柔らかそうだった。細い指先が、毎日使う消毒液のせいで少し荒れていた。

――俺、死ぬなら絞殺がいいな、って、思うんですよ。