読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

庭師と駒

ささやかな愛を伝えたいだけのペン、インクは紫で

俺が家で寝るときに着てるパジャマがあってさあ。冬場用のやつ。今年はもう仕舞ったやつ。

ユニクロのフリースルームウェア上下セットで、上のは白地にグレーの雪の結晶っぽい幾何学模様、下は真っ白。寝間着なので風呂上がりから朝起きるまで着ている。表に出ない日は一日そのままの格好をしていることもある。それで、いつも通り風呂上がりにこれに着替えてしばらく過ごしていると、お母さんが俺にこう言ってくる。

「それうしろまえじゃない?」 

うしろまえ。つまり反対。背中側が前にきていて、襟首が後ろにいっている状態。いやいや違うだろ~と思って確認すると、確かに首のところが狭くなっている。しっかり反対に着ていたのである。「なんで? 着てたらわかるでしょ?」と言われながら俺はいそいそと服を着なおす。ちなみにこれ、着た直後であればまだいいほうで、自分では全く気付かないまま一日家にいて帰ってきた家族から指摘されることもある。

タンクトップ。Tシャツ。パジャマやジャージのズボン。タグやゴム穴、プリントといった目印があればほぼ間違えることはないのだが、それがないと五分五分の確率で反対に着てしまう。大体の場合はすぐ着心地に違和感を覚えてやり直すのだが、一旦脱いできちんと「こっちが前!」と確認したにもかかわらずまた逆に着ることさえある。何故なのか。いったいどこで回転してしまったのか。あらゆる服からタグが消えたら俺は着替えるだけでパニックを起こしそうな気がする。特にストッキングとか、あれ、絶対ダメ。逆になんでみんな間違えないのか不思議なくらいだ。気を付けて、確認しているんですよ。ちゃんと。

 

服の前後だけに留まらず俺という人間はこういうことをめちゃくちゃよくやる。そもそも、裏表や左右という概念に弱いのだ。

中学生くらいまで本気で左右がはっきりせず、右と言われてもどっちが右なのかわからなかった。「お箸を持つほうが右でお茶碗を持つほうが左だよ」と教えてもらってもその例えが全くもってピンとこない。身体のどっちか半分側、というものと「右」という概念が結びつかないのである。今では「右手」のことはだいぶわかるようになったので、「右手じゃないほうが左手」という考え方で「左右」を判断している。「右」を理解しているというよりも、「俺のこっち側の手が『右手』だから、これがくっついている側が『右』」という感じ。そんななので、未だにとっさの判断はできない。

例えば、うちの冷蔵庫は両開きの扉で左右にそれぞれポケットがついているのだけど、お母さんから「右の扉に入ってるソース取って」と言われたとする。「はーい」と言って俺は左側のドアを開ける。「そっち左でしょ! 右!」と言われる。

 その他、「これを右手で持って」と言われたのに左手を出す、ダンシング五関先生のダンス説明を理解するのにめちゃめちゃ時間がかかる上にできても鏡でやってしまうか、途中から鏡の振りにすり替わっている。運転するお母さんに対して俺がナビを見ながら案内していて「次の信号右……ごめん左! ごめんちがうわ右!」みたいなことをやって「どっち!!?」とおこられる。車線変更した後に言ってちょうおこられる。等々。……いやほんとごめんなさい。

何故なのか。俺はバカなのか。右と左、裏と表という幼稚園児~最低でも小学生までの必修課題のはずの概念に、どうして未だに困らされているのか。言葉は理解できているはずなのだ。「右手がついているほうが右」「襟首の広いほうが前」はわかっているのに、身体が思うように動かない。頭と身体の線がどっかでねじれてるんじゃないだろうか? だから脳が一生懸命「右だ! 右だぞ!」と命令しているのに身体は左にキュッと曲がってしまうんだ。

 

今日、夏用のパジャマを下ろした。そのズボンがゴム穴のないタイプだったので間違えそうだなあと、ちゃんと広げて前後の形を見てからこっちが前でしょうと穿いた。違和感。間違えたか、と思って脱いで穿きなおす。先ほどよりも強い違和感。最初のが正解か! また脱ぐ。穿く。おっけー。

……いい加減にしろよ! 人間一年生かよ! そんなんだからこういちいち時間がかかって遅刻とかしちゃうんだろ!

マジでこの年までどうやって生きてきたのか最近よく不思議に思う。なんでか、逆になっちゃうんだよなあ。