庭師と駒

ささやかな愛を伝えたいだけのペン、インクは紫で

23時半、のり弁

某大手弁当チェーン店の弁当が大嫌いだった。僕にとってそれは愛されていないことの象徴であり、23時半決まった味の弁当に箸をつける瞬間は、心をきゅうと糸で縛られたように悲しかった。

 

僕の母は数年前までとある依存性のある遊興(察してほしい)に身を浸していて、土日になるといつも朝早くから出かけていき夜遅くに帰宅していた。祖父母が元気だったころは、僕は家からそう遠くない場所にあった祖父母の家に泊まって休日を過ごしたのだが、祖母が体調を崩したのをきっかけに二人とも施設に入ってしまうと、母の遅い帰宅を家で待たなければならなくなった。その時僕は中学生くらいで、四つ上の兄は高校生だった。

23時の閉店まで店にいるときは大抵成果が芳しくなかった時だ。その時間になると他の店はほとんど閉まっていて、夕食の選択肢はコンビニの総菜かマクドナルドか弁当チェーンくらいしかなかった。毎週土日、いつも、そのローテーションだった。帰ってきた母は機嫌が悪い。あの時席を替えなければと、どちらか迷って座らなかったほうの席がかかったのだと話すのを聞きながら、変わり映えしない味の食事を食べた。兄は何も言わなかったし、僕も何も言わなかったけれど、その時間がただただ悲しかった。

これは今にして思えばという話なのだけれど、僕は人一倍空腹を苦痛に感じるタイプの人間だった。おなかがすいて動けなくなり、苛立ち憂鬱になり、いつまでもいつまでも帰ってこない母親を待っていると、僕は愛されていないのだ、と思った。穴があいて汚れた下着を替えず、襟首のリブが破けた寝間着を着せて、こんな時間になっても帰ってこないあの人は、僕のことなんてどうでもいいのだと。そうしてやっと帰宅した母が提げているのは、あの弁当チェーンの袋だった。

 

兄が大学に進学し母と僕の二人暮らしになったころ、帰省した兄と母が遊びに出かけ、帰りにあの弁当を買ってきたことがある。その日は空腹が特にひどく、僕は家族を待つ間布団の上で泣きそうにもなった。高校生になって反抗心も芽生えつつあった僕は苛立ちながらこの弁当は嫌だ、と言った。

「自分で買って食べたらいいのに。それか、作ったら」

母の言葉に、僕は心の中で何かがぽきぽき折れるのを感じた。そして本当に伝えたいこととは全く違うことを口走った。

「そのお金はいったいどこから出んの? あとでもらえるの?」

母は曖昧に唸っただけだった。僕はこの弁当の味が不満なわけでは決してなかった。俺って義理で育てられているんじゃないだろうか。今でも時々、そう思う。

 

その遊興には人をおかしくする中毒性があって、当時は母も様々な悩みを抱えていたためにそこに逃げざるを得なかったという事情もあった。それに母は僕たちのために最低限のことはしてくれていたし、どんなにのめりこんでも仕事を放りだすようなことはしなかった。ただ、それでも僕は、自分の思い描く理想の家庭環境にひどく憧れた。23時過ぎの弁当ではなく夕方に手作りの温かい食事が食べたいと思った。愛なんて目に見えないのだから求めても仕方がない、愛情がないのなら毎日養ってやれるわけがない、そうかもしれない。けれど、あの頃の僕が本当に悲しくて仕方がなかったことだけは、誰にも曲げようのない事実だ。

 

父と母の間である話し合いがあった時、ぜんぶお母さんが悪いんでしょうと言って母は泣いた。どんな会話が交わされていたのか僕は知らない。けれど恐らく内容は母の遊興についてだった。リビングのラグに蹲る背中を撫でながら僕は、お母さんは悪くないよ、と繰り返した。僕のことは誰が救ってくれるのだろうと思った。僕が飢えて悲しかった時も、声が出なくなって苦しかった時も、誰もこうしてくれる人はいなかった。僕には救われる権利がないのだろうか。悪いのは母ではなくてギャンブルだから、慰めてもらえるのだろうか。

 

話し合い以来母は次第にその遊興にのめりこまなくなっていった。賭け金の少ない店に時折遊びに行くことはあるものの、別の趣味も見つけて最近はもっぱらそちらを楽しんでいる。家計に余裕ができると母との関係も昔ほどは悪くなくなった。理由なき僕の悲しみはごみ箱の中で腐ったままだけれど、それを理解してほしいとは思っていない。僕は育てにくい子供だっただろうし、親だからといって子供に愛情を持てるとは限らない。僕は選ばれたのではなくてただここに生まれてきただけなのだから。

僕の好きなおかかが海苔の下にたくさん入った、その辺の弁当屋のそれより安定しておいしいのり弁当。海苔の部分に付属のソースをかけて食べるともっとおいしい。僕はもう、夕食に愛を探すことはない。