読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

庭師と駒

ささやかな愛を伝えたいだけのペン、インクは紫で

ワナビー素敵っぽいパーソン

昨日(5/16)の夜、だらだらと引き延ばしてやらずにいた地獄の履歴書制作に友達を付き合わせていた。次の日(5/17、これを書いている時点での今日)が説明会並びに面接会だったのでさすがにこれ以上逃げるわけにもいかず、けれどもやる気の起きなかった俺はある友達に連絡をしてネット通話をしながら作業することにした。いわゆる「さぎょいぷ」というやつだ。

 

この友達とは中学のころからの付き合いである。とても賢く問題解決能力に優れていて何かとくよくよ悩む俺にいつも建設的な意見をくれる。あと俺は一年留年しているから周囲の友達はみんな就活の先輩なのだ。彼女の志望する職業は病院関係だったので一般企業の就職活動をやっていたわけではなかったが、履歴書作成や面接自体の経験はたくさんあったし、何より俺は彼女のことを全面的に信頼していた。企業のページを見て書くべき内容を二人で模索し俺がとりあえず書いたものを写真で送って添削してもらう、という作業をしている最中、彼女がふとこんなことを言った。

「そこはさ、何をしたかっていうことよりも、その課題を通してどんなことが分かってそれが仕事にこう役立つと思います、みたいな風に書いていったほうが、素敵っぽくない?」

確かに。その時は得意科目の欄を書いていたのだが、俺が書いた草案は具体的にどんなことをやったのかに内容が終始してしまっていて読んだ人が「へー」と思う以上のとっかかりがなかったのである。早速消しゴムでいらない部分を消していく。腕を動かしながら俺は言われた言葉を反芻して顔が緩んだ。

「素敵っぽい、っていいねえ。なんか」

「なんとなく素敵っぽく思われればいいんだよ」

「うん、さっきのよりめっちゃ素敵っぽいわ」

言い換えれば「印象がいい」とか「好感が持てる」とかになるんだろうけれど、そのフレーズに込められたニュアンスは俺をとても安堵させてくれて、これなら書けるかもしれないと思った。いたく気に入ったのでその後も多用し、俺たちはああだこうだ言いながら「素敵っぽい」履歴書を書き上げていった。一時くらいまでという約束だったのに結局書き終わるまで付き合ってもらって朝方になってしまった。今日の面接にきっちり行けたのは友達のおかげだ。本当に頭が上がらない。

 

「素敵っぽい」という言葉は寛容だと思う。俺が前にブログで言った「わたしB」の概念は、心根から徹底的に磨き上げた自分をもう一つ準備していくというイメージだったけれど、「素敵っぽい」は根幹にある「素敵じゃないところ」を否定しない。むしろ自分はあんまりいい人間ではないけれど、何とかうまく切り貼りやって、そこはかとなくよく思ってもらえればそれでオッケー、という気軽さがある。気になっているけれどまだ一度お誘いできただけの人と遊ぶときみたいに、いい服を着ていく。念入りに化粧をしていく。少しでも気に入ってもらえるように、素敵っぽく見せる。それは嘘ではなくて、俺の言うような自我の書き換えみたいなことでもなくて、「素敵だね」と言われて内定通知書をもらうための「頑張り」でしかないのだ。

企業だって学生に「素敵っぽく」思われるために努力している。給与や待遇があまりよくない会社は、絶対に自分からその話はしない。俺なんかは性格がねじ曲がっているから言及されなかったところを後で調べて「あーあやっぱりな」と思ったりするのだけど(だから自分をうまく見せることを嫌うのかもしれない)なんというか、世の中とは思ったよりもそういう策略にあふれている。就活しかり人間関係しかり経済活動しかり。その社会において俺がくそまじめで性格が曲がっているだけなのだ。そういう俺も日常生活で他人と接するとき、本当に気に入られたいと思う相手に対しては出方も考えるし、どういう風に話せば相手の居心地がいいだろうかと思いながら会話を進めたりもする。好意を持ってもらうために自分をよく見せるなんて誰でもやっている、ふつうのことだ。

 

そういう風に考えると、今日の集団面接で異常なくらい多量の情報を早口で喋っていた人も「好きな人と初めて遊びに行った食事の席で自分をアピールしようとめっちゃ頑張ってる」みたいに思えて、ちょっと微笑ましい。しかし俺は恋愛市場的場面から離脱し続けているのでこの例えだと他人事感が拭えない。だからまあ、「友達になりたい」くらいのスタンスでいこう。

まだ見ぬどっかの御社とお友達になるために、ぜひとも俺のことを素敵っぽく思っていただきたい。素敵じゃないなりに、頑張りますので。

南あきらの慕情

小説/南あきらくん/いつも#短文 にいる南あきらくんではない

 

続きを読む

俺が家で寝るときに着てるパジャマがあってさあ。冬場用のやつ。今年はもう仕舞ったやつ。

ユニクロのフリースルームウェア上下セットで、上のは白地にグレーの雪の結晶っぽい幾何学模様、下は真っ白。寝間着なので風呂上がりから朝起きるまで着ている。表に出ない日は一日そのままの格好をしていることもある。それで、いつも通り風呂上がりにこれに着替えてしばらく過ごしていると、お母さんが俺にこう言ってくる。

「それうしろまえじゃない?」 

うしろまえ。つまり反対。背中側が前にきていて、襟首が後ろにいっている状態。いやいや違うだろ~と思って確認すると、確かに首のところが狭くなっている。しっかり反対に着ていたのである。「なんで? 着てたらわかるでしょ?」と言われながら俺はいそいそと服を着なおす。ちなみにこれ、着た直後であればまだいいほうで、自分では全く気付かないまま一日家にいて帰ってきた家族から指摘されることもある。

タンクトップ。Tシャツ。パジャマやジャージのズボン。タグやゴム穴、プリントといった目印があればほぼ間違えることはないのだが、それがないと五分五分の確率で反対に着てしまう。大体の場合はすぐ着心地に違和感を覚えてやり直すのだが、一旦脱いできちんと「こっちが前!」と確認したにもかかわらずまた逆に着ることさえある。何故なのか。いったいどこで回転してしまったのか。あらゆる服からタグが消えたら俺は着替えるだけでパニックを起こしそうな気がする。特にストッキングとか、あれ、絶対ダメ。逆になんでみんな間違えないのか不思議なくらいだ。気を付けて、確認しているんですよ。ちゃんと。

 

服の前後だけに留まらず俺という人間はこういうことをめちゃくちゃよくやる。そもそも、裏表や左右という概念に弱いのだ。

中学生くらいまで本気で左右がはっきりせず、右と言われてもどっちが右なのかわからなかった。「お箸を持つほうが右でお茶碗を持つほうが左だよ」と教えてもらってもその例えが全くもってピンとこない。身体のどっちか半分側、というものと「右」という概念が結びつかないのである。今では「右手」のことはだいぶわかるようになったので、「右手じゃないほうが左手」という考え方で「左右」を判断している。「右」を理解しているというよりも、「俺のこっち側の手が『右手』だから、これがくっついている側が『右』」という感じ。そんななので、未だにとっさの判断はできない。

例えば、うちの冷蔵庫は両開きの扉で左右にそれぞれポケットがついているのだけど、お母さんから「右の扉に入ってるソース取って」と言われたとする。「はーい」と言って俺は左側のドアを開ける。「そっち左でしょ! 右!」と言われる。

 その他、「これを右手で持って」と言われたのに左手を出す、ダンシング五関先生のダンス説明を理解するのにめちゃめちゃ時間がかかる上にできても鏡でやってしまうか、途中から鏡の振りにすり替わっている。運転するお母さんに対して俺がナビを見ながら案内していて「次の信号右……ごめん左! ごめんちがうわ右!」みたいなことをやって「どっち!!?」とおこられる。車線変更した後に言ってちょうおこられる。等々。……いやほんとごめんなさい。

何故なのか。俺はバカなのか。右と左、裏と表という幼稚園児~最低でも小学生までの必修課題のはずの概念に、どうして未だに困らされているのか。言葉は理解できているはずなのだ。「右手がついているほうが右」「襟首の広いほうが前」はわかっているのに、身体が思うように動かない。頭と身体の線がどっかでねじれてるんじゃないだろうか? だから脳が一生懸命「右だ! 右だぞ!」と命令しているのに身体は左にキュッと曲がってしまうんだ。

 

今日、夏用のパジャマを下ろした。そのズボンがゴム穴のないタイプだったので間違えそうだなあと、ちゃんと広げて前後の形を見てからこっちが前でしょうと穿いた。違和感。間違えたか、と思って脱いで穿きなおす。先ほどよりも強い違和感。最初のが正解か! また脱ぐ。穿く。おっけー。

……いい加減にしろよ! 人間一年生かよ! そんなんだからこういちいち時間がかかって遅刻とかしちゃうんだろ!

マジでこの年までどうやって生きてきたのか最近よく不思議に思う。なんでか、逆になっちゃうんだよなあ。

23時半、のり弁

某大手弁当チェーン店の弁当が大嫌いだった。僕にとってそれは愛されていないことの象徴であり、23時半決まった味の弁当に箸をつける瞬間は、心をきゅうと糸で縛られたように悲しかった。

 

僕の母は数年前までとある依存性のある遊興(察してほしい)に身を浸していて、土日になるといつも朝早くから出かけていき夜遅くに帰宅していた。祖父母が元気だったころは、僕は家からそう遠くない場所にあった祖父母の家に泊まって休日を過ごしたのだが、祖母が体調を崩したのをきっかけに二人とも施設に入ってしまうと、母の遅い帰宅を家で待たなければならなくなった。その時僕は中学生くらいで、四つ上の兄は高校生だった。

23時の閉店まで店にいるときは大抵成果が芳しくなかった時だ。その時間になると他の店はほとんど閉まっていて、夕食の選択肢はコンビニの総菜かマクドナルドか弁当チェーンくらいしかなかった。毎週土日、いつも、そのローテーションだった。帰ってきた母は機嫌が悪い。あの時席を替えなければと、どちらか迷って座らなかったほうの席がかかったのだと話すのを聞きながら、変わり映えしない味の食事を食べた。兄は何も言わなかったし、僕も何も言わなかったけれど、その時間がただただ悲しかった。

これは今にして思えばという話なのだけれど、僕は人一倍空腹を苦痛に感じるタイプの人間だった。おなかがすいて動けなくなり、苛立ち憂鬱になり、いつまでもいつまでも帰ってこない母親を待っていると、僕は愛されていないのだ、と思った。穴があいて汚れた下着を替えず、襟首のリブが破けた寝間着を着せて、こんな時間になっても帰ってこないあの人は、僕のことなんてどうでもいいのだと。そうしてやっと帰宅した母が提げているのは、あの弁当チェーンの袋だった。

 

兄が大学に進学し母と僕の二人暮らしになったころ、帰省した兄と母が遊びに出かけ、帰りにあの弁当を買ってきたことがある。その日は空腹が特にひどく、僕は家族を待つ間布団の上で泣きそうにもなった。高校生になって反抗心も芽生えつつあった僕は苛立ちながらこの弁当は嫌だ、と言った。

「自分で買って食べたらいいのに。それか、作ったら」

母の言葉に、僕は心の中で何かがぽきぽき折れるのを感じた。そして本当に伝えたいこととは全く違うことを口走った。

「そのお金はいったいどこから出んの? あとでもらえるの?」

母は曖昧に唸っただけだった。僕はこの弁当の味が不満なわけでは決してなかった。俺って義理で育てられているんじゃないだろうか。今でも時々、そう思う。

 

その遊興には人をおかしくする中毒性があって、当時は母も様々な悩みを抱えていたためにそこに逃げざるを得なかったという事情もあった。それに母は僕たちのために最低限のことはしてくれていたし、どんなにのめりこんでも仕事を放りだすようなことはしなかった。ただ、それでも僕は、自分の思い描く理想の家庭環境にひどく憧れた。23時過ぎの弁当ではなく夕方に手作りの温かい食事が食べたいと思った。愛なんて目に見えないのだから求めても仕方がない、愛情がないのなら毎日養ってやれるわけがない、そうかもしれない。けれど、あの頃の僕が本当に悲しくて仕方がなかったことだけは、誰にも曲げようのない事実だ。

 

父と母の間である話し合いがあった時、ぜんぶお母さんが悪いんでしょうと言って母は泣いた。どんな会話が交わされていたのか僕は知らない。けれど恐らく内容は母の遊興についてだった。リビングのラグに蹲る背中を撫でながら僕は、お母さんは悪くないよ、と繰り返した。僕のことは誰が救ってくれるのだろうと思った。僕が飢えて悲しかった時も、声が出なくなって苦しかった時も、誰もこうしてくれる人はいなかった。僕には救われる権利がないのだろうか。悪いのは母ではなくてギャンブルだから、慰めてもらえるのだろうか。

 

話し合い以来母は次第にその遊興にのめりこまなくなっていった。賭け金の少ない店に時折遊びに行くことはあるものの、別の趣味も見つけて最近はもっぱらそちらを楽しんでいる。家計に余裕ができると母との関係も昔ほどは悪くなくなった。理由なき僕の悲しみはごみ箱の中で腐ったままだけれど、それを理解してほしいとは思っていない。僕は育てにくい子供だっただろうし、親だからといって子供に愛情を持てるとは限らない。僕は選ばれたのではなくてただここに生まれてきただけなのだから。

僕の好きなおかかが海苔の下にたくさん入った、その辺の弁当屋のそれより安定しておいしいのり弁当。海苔の部分に付属のソースをかけて食べるともっとおいしい。僕はもう、夕食に愛を探すことはない。

「わたしB」で生きていくということ

就職活動をしている。

一ヵ月ほど我流でやってみたけれど箸にも棒にも引っかからず、留年で一年ダブっている僕より一歩先に社会人になった友達が「一度くらいはエントリーシートの添削を受けたほうが絶対に良い」と言うので、お世話になっているゼミの教授にお願いして見てもらった。手書きの履歴書のコピーをパッと見て、真っ先に彼は言った。

「まずさあ、この字が……字で引っかかってんじゃないかな」

僕は字がめちゃめちゃ汚い。どのくらい汚いかというと、いろんな人に「小学生の字みたいだ」とか「へにゃへにゃしてる」とか言われ中学時代の塾の先生には「お前字で落ちるぞ」と言われ僕自身も「な」と「る」、「を」と「そ」の区別がほとんどないな、と思っている。僕なりに線を引いて幅を整えたり時間をかけて書いたりはしているのだが、それでもやはり先輩方の履歴書と比べると圧倒的に字が汚かった。でも字が汚いのはまあ、しょうがない。しょうがなくはないけど、努力でカバーするしかない。それからも先生は様々具体的なアドバイスをくれて、最後にこうまとめた。

「真実をそのまま書きすぎなんだよなあ」

そう、そうかもしれないっすね。僕は笑った。就職活動は自分自身を売るセールスなのだ。生涯賃金三億円をかけた、いかに自分をよく見せるか全国大会だ。確かに僕の自己紹介欄にはちらほらマイナスにもとられるであろう言葉があって改善点だと言われればそうだった。先生が僕のマイナス面を否定しているわけではなく「書かなかったらもっと書類が通るようになるよ」という意味での、本当の助言であることも十分理解していた。

「自分自身を出しすぎると、落ちた時にも傷ついちゃうし。少なくともここは、アイデンティティを出す場じゃないから」

「じゃあ、それ用に作った感じの……『わたしB』でいけばいいってことっすね」

「そうだね」

社会に入ったらみんな自分自身のままではいられない。おとな、という形になる。みんなそうなんですか、と聞くと先生が頷いて、僕は言った。

「みんなかわいそうだなあ」

企業説明会に行くと黒髪でブラックスーツを着た就活生たちが、同じような声で、同じような喋り方をして、同じようなことを採用担当に質問する。やり方を身につけている程度の差はあれど傾向は似通っている。僕はそれが本当に気持ち悪くて仕方がなかった。けれどあれはきっと、みんな「わたしB」なのだ。自分が行きたい企業に就職するために、必死になって作ってきたぴかぴかの自分。

 

この間のアルバイト、僕はある作業のために事務所のパソコンにつきっきりになっていた。昼休憩を終えて戻るとデスクの上に一枚のメモ紙があった。それはある従業員さんが書いてくれた、僕の就活を応援するメッセージだった。その人は僕の母親より少し若いくらいの年齢の女性で、年ごろの子供さんがいることもあってかいつも僕の将来について自分の子供のことのように気にかけてくれていた。そして今僕の就職活動があまりうまくいっていないことも知っていた。

「みなちゃんだったら大丈夫!!」

数行の中にはそんな言葉もあった。シフトの関係で彼女はもう退勤していて、帰り際にわざわざこれを書いてくれたであろうことも、落ち込んでいる僕を心配してくれたことも元気づけてくれたことも素直に嬉しかった。けれど僕はその時に、ほんの少し思ってしまった。

騙しているなあ。

僕だったら大丈夫なんて、俺そんな奴じゃねえんだけどなあ。ただそれっぽく見せるのがうまいというだけで。周囲と角が立たないのは自己主張しないからだ。誰の意見にも偏らず、まあそうかもしれないっすねと笑っていればいい。誰とも深く関わろうとしていないから、それができる。

バイト先の僕は、「わたしB」であるだろうか。そうかもしれない。イチから完璧に作り上げた自己というわけではないから、「わたし´」とかそんなところか。もしもこの先「わたしB」で生きていくなら、一生この「騙している」感じとお付き合いしなければならない。

 

真実を切り貼りして書くことや、うまく自分を使い分けることや、それによって後ろめたさを感じないようになることが、社会進出なんだろう。今少なくとも少しは上手にやれているところのある僕は、たぶんこのまま「わたしB」を使っていくこともできるかもしれない。実際、そうやってうまくやっている自分のことはそれほど嫌いではない。だけどそうなったら、キーボードの前で神経をキリキリ尖らせて些細な物音にも激昂しそうになる、少なくとも一番生きている、と思う瞬間の僕を、土の下に埋めてやらないといけないだろうか。そいつが大人しく荼毘に伏されてくれる気がしないから怖いんだけどなあ。

温厚な自分がもたらす整った日常を、全身の細胞が発火しそうなほど嫌悪する時がある。叫びながら走り出して行方をくらましてしまいたいと思う。バットとスコップを振り回していろんなものを壊す想像をする。そんな思いが自分の意図しないところで弾けたらと思うと、恐ろしい。みんなすげえなあこれやってんだもんな。

「そんなこと言ってる場合じゃないんだよ」と誰ともなく諭されたような気分になる。そいつがきっと「わたしB」だ。

こんにちは自我くん

自我の目覚めがめちゃめちゃ遅かったんじゃないかと思う。というか、つい最近のような気がする。

僕が「僕自身」という存在を意識したのはほんの一、二年間前のことで、じゃあそれまでどうやって生きていたのかというといまいち思い出せない。たぶん目の前にあるできないこと(僕は高校生の頃全然学校に行っていなかったし、大学もあんまり行けていない)とか、日々の生活でいっぱいいっぱいだったのだと思う。
なにもできない僕は周りの判断に従い、こころの暴走は文章に込めて昇華していた。そこに「僕」はいなかった。

自分、が立ち現れてきたのは、大学生になってアルバイトを始め、給与を得るようになってからだった。自分の判断で使えるお金があるとそこに選択が生まれる。大学が県内でもそこそこ都会の街にあるため授業が早く終わった日は駅ビルで洋服を見て回ろうとか近くのカフェでパソコン開いてなにか書こうとか、自分の行動を自分で決めることができた。
そうすると自分の本当に好きなものと嫌いなものがわかった。今あれだけ言いまくっている「食べることが好き」というのも、ほんの最近わかったことなのだ。身体の特性、おなかがすくとイライラしてしまうとか猫アレルギーであるとかそういうこともどんどん知った。

それから仕事を始めたのも大きかった。アルバイトとして働いてみたら、思ったよりもちゃんとできたのだ。最初にやった試食販売員のアルバイトでは人と話すことも大きな声で呼び込みをすることもあまり苦ではなく、ある商品で地域一の売り上げをあげることもあった。次にやったホテルの仕事も、二年ほどきちんとやっている。
俺には苦手なことがある。みんなが普通にできるようなことがまったくできないこともある。でも逆に得意で、できることもあるんだと思った。

選択の自由と能力を手にすると、自分、が生えてくる。
なにもできず、なにものでもなかった僕が、じわじわ形をとっていく。学校で学んだ心理学や社会学の知識を自分に当てはめると、自己を客観的に分析することもできた。

そして僕はどうなったかというと――怒るようになった。決定権がほしい、時間を自分のために使いたい、なにもできない人間として扱わないでほしい。そういうことを思いはじめた。今までは自分を押さえつけて相手に合わせられていたのにそれができなくなっていった。「僕」が、どんどん膨れ上がるのだ。無限増殖する自己をスコップでぶん殴って土の下に埋める! 正しく生きていたい! 平穏に生きていたいから! だけど堪えきれない! また殴る!

察しのいい人はもう気づいたと思う。これは思春期であり、反抗期だ。
……まじで? 思春期? 二十歳だいぶすぎてんのに? 酒も煙草も嗜んで怒られないいい大人だぜ?
でもやっぱり僕は思春期だ。思春期以外の何物でもない。

芽生えそうな自我に知らないふりをしていたり、それを無理矢理押さえつけてきたのは、きっとこの自我が膨張するに伴っておきる色々な軋轢に堪えきれる環境と精神がなかったからだと思う。僕は僕の自我が厄介なことにうっすら気づいていて、だからそれを出さないように、一生懸命頑張ってきたのだ。

自我は暴れる大きな化け物みたいで困る。傷つきたくないし傷つけたくないのでへらへら笑っていたいのにこいつがそれを許してくれない。だけどこの化け物が僕はわりと好きで、いなくなってもらっても寂しい。
いつまで寝かせてんだって感じでのたうち回る自我。大人になってやってきた思春期の面白いところは、それをある程度俯瞰で見られるところかもしれない。僕はお前に勝てないんだと思う。むしろその檻ぶっ壊して、傍観者面している僕を食いつくしてくれ。

今、就職活動で未来を決めなければならない岐路にいる。もうちょっと早く来といてもらえたら色々楽だったんじゃないかなと思うんだけど、今だからこそ来たのかなあ。
春はしばらく終わりそうにない。

2016年4月15日 深夜

九州の中心で起きた大規模な地震の影響で、普段災害と無縁な僕の街も少しだけ揺れた。スマートフォン緊急地震速報の物騒な音をでろりろ鳴らして数秒後ぐらぐらするのが数回続いた。震源地は遠く避難するほどではない震度だったけれど、それでも小さな揺れとアラートは怖かった。揺れが落ち着くと家族はすぐに寝た。俺は、もしかしたらまた携帯がびーびーいうんじゃないか、次こそ大きい揺れが来るんじゃないかと思って、眠れなくなってしまった。4月15日の、深夜だった。

 

ベッドの上で横になって何とか寝ようとしても心臓がばくばくして止まらない。テレビをつけても災害情報ばかりだろうしかえって目が冴えてしまうのはわかっていた。こわい、どうしよう、でも寝ないといけない。全身がひどく緊張している感覚にとらわれていた時、ふと思い出した。

ああ、ラジオ、やってるじゃん。

金曜深夜一時すぎ、俺の大好きな芸人さん――バナナマンのふたりのラジオが放送されている時間だった。スマートフォンのアプリを起動して番組を選ぶと、イヤホンに楽しげな声が滑り込んでくる。その時二人が何の話をしていたか具体的には思い出せないけれど、身体中みえない縄でくくられているような気持ちだったのがするするとほどけていったのは、強烈に覚えている。特に設楽さんのゆったりした喋り声が鼓動を整えてくれて、言いようもないくらいほっとした。好きな人たちのおしゃべりが聞こえるというだけで狭まっていた気道が広がってうまく呼吸ができた。

以来、俺は努めてそのラジオを聴くようになる。金曜JUNK、バナナマンのバナナムーンゴールド。あれからちょうど一年が経った。あの日が金曜日でよかったと、本当に思う。

 

電波の向こうから聞こえる二人の会話はいつも中学生の放課後みたいだ。人にラジオを聴いている話をして、それってどんな番組なのと聞かれたとき、俺はいつも「メシの話と下ネタと近況報告しかしてない」と答える。某ジングルの言う通り「ち〇この話ば~っかりやないかこのラジオは」である。全部聞いているわけではないけれど、他曜日と比べるとかなり内容の学がないほうなんじゃないかと思う。節分の時なんて日村さんが大量の人間に群がられ恵方巻を口にねじ込まれケツに指を突っ込まれているバタバタした音声とうめき声が音楽に乗せて流れていた。いや全然わかんねぇよラジオじゃ。なんかすげえ大変な状況になってるってことしかわかんねえよ。でもそれを俺たちは腹を抱えて笑ながら聞いている。彼らはいつまでも、とことん、馬鹿らしい。

大人になっても放課後の中にいる。それは、自分たちが楽しむことで周りを喜ばせられる二人だからできることかもしれない。世の中のほとんどの人間は年を取るうちに放課後から抜け出さなければいけなくなる。そこに居続けることを、劣っていると嘲笑する人もいる。でも本当は、くだらないことでげらげら笑って楽しくしているのが一番いいんじゃないか。むずかしい顔をして戻れないことに目を瞑っていたいだけなんだ。

苦しい時追い詰められて何も考えられなくなった時、金曜日だと気づくとはっとする。まるで大好きな友達と会う約束をしているみたいに、もう少し頑張ろうと思える。番組が始まって10年になるという。俺はその一端しか知らないけれど、あの時間がこれからもできるだけ長く、ずっと、続いていってほしい。いくつになっても楽しげな彼らが、俺の希望であるからそう思う。

 

金曜日の深夜一時、一人の部屋でラジオアプリを起動する。44歳になったばかりの人と45歳間近の人がメシと下ネタと近況報告の話ばっかりしている。俺と、同時に盗み聞きしているたくさんの人たちが声を殺して笑う。永遠の放課後がそこにある。